新約聖書を知っていますか/阿刀田高/1996
- 作者: 阿刀田高
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1996/11/29
- メディア: 文庫
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〝初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった……〟
旧約聖書に続き、こちらも読んだ。軽いタッチで書かれており、信仰とは離れた読み物として、新約聖書がどんな本なのか知ることができる。
この「信仰とは離れて」というところがミソで、著者も信仰を持たない身としてこれを書くのに苦労したそう。なぜなら、旧約聖書はイスラエルの民の歴史の側面が大きいのに対し、新約聖書は信仰ありきの物語で、それと切り離して説明することは至難だから…
洋画を観るとき、宗教をざっくりでもちゃんと知ってたら、もっと楽しめるんだろうな…
と思うことが多かったので、思い切って聖書通読にチャレンジすることにした。
しかし、正攻法でいっても挫折することが予想される。そこで、まずはこのエッセイを読むことにした。
まず、ヨセフ、マリアなどは何人も出てくる。これは聖書を難解にしている要因でもある。ヨセフ、4人も出てくるんですよ…たしかに混乱する。
新約聖書は全27巻。中でも
マタイによる福音書
マルコによる福音書
の4つの福音書が中核を成している。
福音書には内容が重複しているところもあるが、それぞれの福音書のスタンスは、「われわれが信ずるべき神はどのようなお方なのか」ではなく、「ただ神様を信じなさい」ということに力点が置かれている、というところにある。
聖書には “マタイ読み” という俗語があって、これは「マタイによる福音書」の部分だけを読んで、新約聖書を読んだと言う人のことをディスった言い方だと紹介されていて面白かった。
著者は、実際に新約聖書の舞台となったイスラエル北東部のガリラヤ湖や、エルサレムのゲッセマネに訪れている。一緒にイエスの足跡をたどっているような気になって、わくわくした。
神の子イエス。彼は少しずつ、自分自身が神の子であることを確信していった。そして、その究極の証明方法が、十字架に磔にされ、3日後に復活するということ。全人類を罪から救うために……
著者も新約聖書の中で一番好きだと言っている、磔刑前日のゲッセマネで祈るイエス。
ここでの彼は、自分の運命を悲しみ、悩んで、とても人間らしい。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と、一時は重い使命から解放されたいとまで望んでいる。
「命を賭けて信念を貫こうとした革命家には、いつだってこんな夜があったのではなかろうか。決行を前にした最後の煩悶が。」
著者のこの解説が好き。
自分は信仰を持たない。このエッセイを読んで新約聖書の概要は理解したけれど、神を信じるとはどういうことなのかは、わからない。
でも、自分の魂の拠りどころが宗教となる日が、いつかはくるかもしれない。それはどんな気分なのだろう……
目には見えない大いなる存在を確信し、それにすがり、真摯に祈る生き方も興味深い。
悪いようにはならないはず。
なぜなら、人間を愛して、愛して、愛してやまない存在、それが神なのだから。